ちぎったメモの端っこに

明るい日も、暗い日も

5月が始まりましたが雨天続きですね

あっというまに4月が終わり、5月になりました。早いなあと思う中で、何もしていないようなそんなどこかぼんやりとした焦燥感が心にあります。

 

雨が連日続いていて、部屋が湿気っぽかったので除湿をつけて過ごしていると、もうすぐ暑い夏がやってきそうだな、とふと思ったり。

 

雨続きで少し気持ちが下がるのか、前職の退職のことを思い出しました。送り出される身になるといただくお手紙や言葉や贈り物があまりにも暖かくて、自分ががんばってきたことを周りのかたに認めてもらえていたのかなと嬉しく思いながら、家でしばらくとても綺麗なお花を飾って、見るたびに仕事での色々な思い出が蘇りました。

 

世の中で春は一般的に別れの季節であり、出会いの季節ともいいますよね。春はだから悲しくなる人も多いというのはなんだか共感できます。

 

自分もこれからの人生であと何度別れと出会いがあるのか計り知れませんが、また新しく出会える人たちとはいい関係が築けるように、前向きに自分から心を開いて接したいと思うそんな5月の始まりでした。

 

5月も自分のペースで頑張りましょう。

お昼はちょっと5月を頑張る自分へのご褒美で甘いものを食べようと考え中です。

 

 

惜しまれる事には慣れないけれど

 

私は仕事を退職する時、泣いてくれる人がいました。寂しくなりますねと。

 

私は誰かを送る時、よく泣く方でしたが、自分が泣かれることには慣れていないんだと言うことをその時痛感しました。涙がつられてしまうわけでもなく、上手にお礼の言葉を述べれるわけでもなく、おろおろしてごめんなさいと苦笑いするまででした。

 

泣きそうだけど、我慢してくれている人の目にギリギリまで溜まった涙は、むしろなんだか申し訳なくて、こういう時、気の利いた言葉の1つや2つがスマートに出てくればいいのにと、喉の奥をモゴモゴさせていました。

 

離別を惜しまれることに慣れると言うのも難しいことかもしれませんが、ほとんどは慣れだと思っています。慣れていない自分はあまりにもスマートでは無いんでしょうけれど、惜しんでくれる人がいると言うありがたさと、暖かさに触れる機会でした。

 

優しい暖かさをくれた人たちが、これからも健康で幸せだと嬉しい限りです。こういうところだと丁寧に正直に気持ちの整理をつけることができます。

去年度は心の忙しい日々でした。今日も、お疲れ様でした。

 

4月も下旬に差し掛かる

4月もいつの間にか下旬に差し掛かるそうです。ふとカレンダーを見たときも、4月が残り、わずかなことに気づき、仕事の手を少し心なしか早めるような日でした。

 

出会いの別れの季節とよく言われますが、4月は特に出会いの季節とはならず、新しい方との出会いは少し先になるようです。これは個々の会社によっても違いますよね。

 

昔から人の上に立つことがとても苦手でした。かといって、人の前に立つ事は苦手と言うわけではありませんでした。不思議なもので緊張はしますが、私の中では全く別軸でした。

 

社会人になり、人の上に立たざるを得ない状況にあることも増えてくると、自分の苦手意識と言うものと適性としなければいけないと言う責任感にプレッシャーを感じ、悩みが増える日々は今でも鮮明に思い出せます。

 

うまく伝えたいのに伝わらない。自分の思い描くビジョンをどうすれば的確に共有し、また相手のビジョンも汲み取ってより良いビジョンを考えつつ少しリードしてあげる。そんな先輩でいたいとずっと思っていましたけれど、自分の意思を伝えるだけでは押し付けになるし、自分の意思を伝えなければ意思を共有できないまま、部下はすくすくと成長します。

 

子育ても似たようなものなのでしょうか?

自分は子育てと言うものを経験していませんが、ふとスーパーやショッピングセンターで子供と意思疎通を図る家族を見たときに注意したり、叱っている姿と言うのは、家族側が明確に伝えたいビジョンがあって、それを子供に伝え共有したいと言う姿勢なのだと感じます。

 

部下を子供と思うわけではないですが、やはりその人の良い成長を願うために、愛情と配慮と尊重が必要だと感じます。

 

いろんな本を読めば、いろんな著者の方々の良いと思うビジョンとそのビジョンについてこれる部下を作るための様々な考えが書かれています。

 

正解は無いのかもしれませんが、

自分が部下に立った時、尊敬できる上司像でいたいと思います。

 

まぁでもなかなかそう簡単にはいきません。あまり考えすぎず、思い詰めないようにしたいと思います。おやすみなさい。また明日

断捨離の難しさ

祖母が亡くなったとき、読書が好きだった祖母の貯め込んでいた本の量に親族で唖然としたことがあります。そしてとにかく本は重い。片付けるのが一苦労でした。

 

でも、祖母が読んだ本を手に取ると、その本を手に取り、読んだ後がわかるような感じがして、祖母が恋しく、また懐かしく、離れてしまっても直鮮明に祖母の顔が浮かびます。叔父にお願いして、たくさん残した本の中から1冊だけ貰いました。

まるでお守りのように、いつも本棚に凛と鎮座しています。時々取り出しては読むわけでもなく、パラパラとめくり穏やかな紙の匂いを嗅いで、また元の位置へ。

 

ですが、片付けの大変さから、私も自分自身の荷物を減らす必要性を感じました。何かの準備と言うわけではなく、いつも周りのものを整理して必要か毛布必要か必要かもではなく、もう少しシビアにジャッジを下す。そうすることで、荷物の蓄え込みの節制は取れるように感じます。

 

一定のところまではかなりのスピード感を持って減らしていけるものの、途中から明らかにその歩みは遅くなり、最後のほうは失速します。懐かしいなぁとか思い出があるようなものは今後使わないとわかっていると処分を考えますが、少しだけ見てから....と言うような気持ちになり、結局動かした手を止めてしまう力を持っています。そういう仕分ける作業の日になるまでそういったものって結局開いてないことがほとんどなんですが。

 

いつか絶対に処分しなければならない日がやってくる。その日までに優しく1つずつを手放せる練習をしたいものです。

 

心穏やかに、今日もおやすみなさい。

少しの違い

友達でも、家族でも仕事でも、許せると言う範囲には全く同じ人がほとんど存在しないと思っています。

 

これは私なら許すなと思った事は、誰かにとって絶対許せないことかもしれません。逆に誰かにとって何とも思わないことが私にとって何日も引きずるような事かもしれません。

 

友達との関わりだけじゃなくて、社会に出るようになって、上司ができ、後輩ができ、そして上司になり。

 

何かを判断するときは、今でも迷います。

私にとって正しいと感じるこの目の前のことが多くの人にとっては間違いだと感じるかもしれないと言う不安に直面することになるからです。

 

それでも、自分の経験とその決定による影響を仮定して、決めて、生きていかなければなりません。大人は何年たっても難しいです。あの時憧れた上司は今も誰かの上に立つ職業でいらっしゃるのか、とあの人ならどんな判断をするのだろうとふと思う夜でした。

 

正しく居たい、この感覚をベースにずっと生きていますが、いつかこれが正しいのだと自分自身で納得できる日は来るのか。生きている間に、そんな日が来たら、その時自分は何を思うのか。

 

夜はこうして堂々巡りな考えがよぎります。このまま考えても仕方がない日は目をつぶって明日を迎えることにします。おやすみなさい、今日も。

1人じゃないような感覚にハマる

何年か前からゲーム配信や配信を見るようになりました。多種多様で元気系、静か系、笑いを取る系、お姉さん系、マイペース系、技術派系....揚げ出したらキリがないほど、各の好みに合わせてみたい。配信を選べるほどその職業をに携わっている方が多いようです。仕事が終わって帰ると静かで痛い日もありますが、人の笑い声がちょっと聞きたい。元気をもらいたいような日もあります。

ちょっとしょうもないことで爆笑してみたりあまりにもセンスの光考え抜かれた笑いにお腹を抱えて笑うこともあったり、ゆったり人の雑談を聞いたりそうしていると、全然一人ぼっちという感じがしません。

 

一緒に朝準備をしましょう。一緒に勉強しましょう。一緒に片付けをしましょうなど一緒に何かをしているように感じられる動画というのが世の中に一定の需要があるようですがそれもうなづけます。

 

では、小学生の将来の夢ランキングに公務員、学校の先生、スポーツ選手といったようなラインナップではなく、YouTubeブイチューバなど、動画配信を用いた職種が人気右肩上がりといった様子だそう。

時代の変化、凄まじいもんです。

 

そういえば、友人の子供がテレビをスワイプしようとすると困っていました。「テレビをスワイプ!?」と思ったけれど、今の子にとっては、スマホがベーシックで、割と何でも触って、思いのままに動かせるというのが主流なのかもしれません。直感的に操作することこそ、当然といったかのように。すごいなぁ。

 

また何年かしたら、きっとちょっとびっくりではなく、肝を抜かれる直面する出来事も増えるんだろうかと思うと、どんなエピソードが未来で待ってるのかちょっと楽しみでもある気がします。

 

自分がおじいちゃんおばあちゃんになったとき、どんな世の中なんでしょうか?

想像もつかない未来に向かって明日も頑張ろうと思います、おやすみなさい。

出来るようになったこともある

とにかく昔は継続して何かをするっていうことが苦手でした。勉強する・手帳を書く・ノートを書く本を読む。あと例えば、ダイエットをするときに筋トレを何回するなどなど。

 

学生の頃もやる気があるのは、授業の最初の1、2回まで。おかげで、日本史の授業は縄文時代だけやけに詳しく、後はすっからかんと言う悲惨な脳内。手帳も書こうと思い立てば、最初の数十ページで、後は空白。日記なんて書けたもんじゃありませんでした。。授業で取るノートなどもきれいに書く。やる気が続くのは最初だけでどんどん汚くなり、最終的にその汚いノートを開くのも嫌になり、書くことを諦め始めると言う始末。

三日坊主と言う言葉があったと思いますが、まさにそれを体現したような気質....

そんな私もいつの間にか人になり、そういったことが苦じゃなくなりました。なんでだろう?よく考えてみても理由が分かりませんが、ちょっとした勉強するのが楽しくなってずっと続けられるようになったし、日記も続けられるし、やりたいと思ってやろうと決めたことなら地道に続けることができるようになりました。何か劇的な理由になるようなことがあったわけじゃないけれど、不思議なもんで。これが歳を重ねるっていうことなんでしょうか。昔の自分に自分はちょっと呆れていたけれど、大人になった今の自分は少し好きになりました。

 

そんなこともあるんだなぁ、おやすみなさい。